物事の奇跡性に心を向けてみたい.この世界に物事が起こる,あるいは物事が存在する,という当たり前のことが,ほんとうはなぜか分からないくらい奇跡的であるという事実について,もう少し調べたり掘り下げてみたい.世界があることが神秘的である,と書いた哲学者がいたが,このテーブルにあるコップ1杯の水はなぜ存在できているか,そもそも水がここに存在できているのはなぜか,そういうことを考えてみたいと思っている.
昨日は診療所からの帰りに,不用采論法という論理を考えついて心が躍った.先日自分で作った複素確率の式と,複素情報量の変換公式を用いて,神さまがさいころを振らないことと,確率は神さまではなく物事が決めること,最初の情報は蛇がエバに与えた木の実についてであることを理解した.
御心のままに物事が進むために,情報は不要である.心配なこと,予期していたことが杞憂に終わることは多い.むしろ情報量をゼロに,起こるか分からない状態を起こらないと祈りきるとき,物事は御心のままに動く.神さまは全知全能であるから,いつも情報量をゼロにしている.情報を得る必要がないのである.
そういう意味だと,物事が流れていく原因は物事にあり,どのように流れていくかは物事が決める.壁があれば進めないし,穴があれば落ちる.よく分からない現象に出会うときは大量の情報を必要とするし,いつも起こることについては調べようともしない.ただ単純な日常の中に,未だ語りえていない事実が,見つかるように隠れている.それを語りえる数理を探究してみたいと思っている.
