学ぶことが多い本が,世の中には出回っている.聖書以上の本はさすがにないが,もう20年以上の付き合いとなっている本や,仕事に詰まったら必ず開く本が手元にある.しかし,そういう本に限って普段読もうと思わない.なぜか気軽に開けない.読み込めばもっと仕事ができるようになるだろう,生活がすばらしい方向へ改善するだろう,だけど,手に取れないのである.
これは些細な感覚の話しで,この感覚は誤りなのかもしれない.しかしながら多分,この感覚をなかったことにしてその本を読み始めると,線を超えてしまうというか,年齢に不相応な教養を積んで失敗した経験があるからだろうか,これ以上はやめておこう,となる.机の上にありいつでも開けるようにはしてあるが,手に取って開くだけで,読むことができない.
それらの本は生涯を共にする価値が確かにある本だし,いずれは読み通して暗唱できるくらい身に付けてしまいたい,そのくらい深く読み込みたい本である.本とのかかわりは単純ではなく,多くの本と出合うと次第に付き合い方が本ごとに出てきて困る.その半面,変わりようのない愛着がわいてしまう.机の上に並べられた本の背表紙たちは,多くを賑やかに物語ってくれる.
本を買ったらぱらぱらと開いて,どのような内容が書かれた本を買ってしまったのか,確認する習慣がある.本文を熟読する本と,索引代わりに参照する本.熟読して身に付くものばかりではないが,学ぶ価値のある文に出合うと,その一文だけでもこの本を買った価値があると思う.机の上にある本は皆その価値を感じたものばかり.でもその価値が大きすぎると存在感が強すぎて距離をとってしまうのである.
