浮かんだことを書き残す作業は,神学的にはとても勧められた行為ではない.思うよりも祈ることが正しいからだ.人間の知性は神の一端を捉えられるとしても,本当に神の恵みを体験するには祈ることである.神に求めることである.だから神に祈り求めることなしに考えても結果はよろしくない.より正しく考えることができますように,神をもっと知ることができますように,そう祈ることなしに思いを巡らしても無駄になる.
私がこれから生きようとしている時間は,今まで無反省に記録してきたことへの反省が含まれている.私は単に文字を並べる快楽に興じていただけで,真善美聖を求めて思考していたのではなかった.牧師は祈りつつ説教を書くというが,私もそれに似たことを習慣にする必要にようやく目覚めつつある.私だけで有用な物を書き残すことはできないし,自分の知性を神なきままに信じることは過剰で危険だからだ.
私は受洗する前,求道者だった頃,私を価値ある人間に変えてください,豊かな思想を授けてください,といった祈りをしていたことがある.当時は経済的にかなり厳しい生活で,病の具合も悪く,救いを求めていた.それが今となっては全て叶い,全く自由に思考できるようになったし,経済的困窮から脱出し,病も全快した.36歳であるが,神に祈り求めたことは全て叶うという知識は,固い経験になった.
結局,成功した人も偉業を成した人も,どんな人間も神に祈り求めた結果であり,成功しなかった人や暗い斜陽を辿った人は皆,神に祈らなかった人なのではと思う.そんな単純な帰結なのだろうと思うのだ.真に有為な人間を作るのは,教育もあり努力もあり境遇や環境もあるだろうけど,祈りなしには開花しないはずである.本当に価値のある人間になるには,信仰が必須である.名を残さずとも,結果は残るだろう.
