小学生の頃,本を読むのは苦行だった.大学生になって勉強だと思って相当な冊数を読んだけど,今になっても,本を読むのが苦しい日がしばしばある.誰かが書いたものを読むよりも,自分で書く方が楽だと思うことが最近は多い.多くを読むよりも自分で考える方に重きを置くようになったので,読むことでその数倍の思考を培わねばならず,それが大変だからだという理由で読むのが苦しくなるのだろう.
本来,物事を知ることは楽しい.考えることももっと楽しい.それは身体でよくわかっているので,営みは続いていける.でも,それを加速させたり増量したりすることは,私の知の生態系の配分を乱すので避けている.本当は読みたい本など書棚にたくさん並んでいるし,つまり既に買っているのだが,そのほとんどは手にすることさえない.それこそが悲しいかな,買われた本の運命であるかのように.
書きたいから読むのだろう,考えたいから読むのだろう.いや,知識を得たいから読むのか,文字を追っていたいから読むのか,疲れた心を耕したいから読むのか.理由はひとつでなくて良いと思う.目的など常に多様だから.そうやって定まらない目的を浮つかせたままだから読もうと思えないのかもしれない.どこかのきっかけで読もうと決め,読み始めなければ,本は何も変わらないし変えてくれない.
昔はもっと勤勉で,常に何かの文字を目で追っていた.そんな時期から今まで本は増え続け,もっと勉強したいことは山積し続けている.でも果たしてこれで良いのだろうか.どこかで諦めをつけるか,やり遂げるかして,課題をもっと減らすべきなのではないか.満足したものから手放す時期なのではないか.そう考えると,本を思想によって整理する道が見える.満足したら手放す,これを適用してみたい.
