いつ死んでもいいと思うようになった.私ももうじき38歳,前の時代なら40歳が標準寿命だったそうだから,もうじき死ぬ年齢だ.現代ではまだ一生の半分も生きていないことになるが,いつ死ぬかはわからない.早く死ぬかもしれないし,百歳を超えられるかもしれない.事故や事件や天災で死ぬかもしれない.食事に気をつけていても病気になるかもしれない.自分で事を起こすかもしれない.私はいつ死んでもおかしくない.
誰かのために死ぬような時代ではない.戦争のない静かな時間を満喫している.咄嗟の時には,誰かを守るために死ぬのも悪くない.私の命がこの世で存えるより価値がある命が生き続けた方がいいと考えるからだ.私はもう人生に満足している.早いかもしれないけど,いつも満足している状態が続くなら,それは素晴らしく幸せな人生の形だろうと思う.天国に用意される住まいで暮らしたいという夢により,死が希望になる.
もし明日豪雨や土砂崩れで自宅が崩壊したとする.私は土砂に埋まるか倒壊した建物の瓦礫の下敷きになり,無惨に息が絶え死んでしまう.しかし,その息が止まる過程の中で私が感じるだろう辛さは,寒く冷たく苦しいだけであり,総じて死ぬことへの幸福に変換されると思う.健康体が死ななくてはならない神の下した運命を受け入れることは,天国への階梯が開けた時機を意味する.何かを訴えたり理念のために死ぬのではない.
私は何が起ころうと,幸せに死ねる.これほど確実なことはない.信仰を持つ前は,死への憧れを粋っているだけだった.信仰を持ってから神の御旨を知るようになり,本当の死への態度を思い知った.幸福なのだ.死ぬことが幸福な体験であり,死んだ後こそ期待に値する,胸が高鳴る世界なのだ.現世での暮らしがどんなに静かで落ち着いて平穏無事であろうとも,そうでないままに暮らす人がいる以上,地は天国より悲惨である.
