ストーリーに関心がない子供だった.国語の時間も読み聞かせの時間も,数文字の登場語を必死に頭に思い浮かべながら,話の結構を掴もうと懸命に聞いていた.そう,多分話を理解する力が人よりかなり足りないのだ.聞いて理解することが今も苦手だ.礼拝で説教を聞いても,ほとんど残らないのは,牧師の語りのせいではなく,私が耳から理解する能力が生まれつき弱いからだ.それでも私は話を聞くことが好きではある.
ふつう人の話をどのくらい理解しているものなのだろう.私は1時間くらい聞いて数語しか思い出せないのだが,誰も覚えていない発言を覚えていたりもする.また,覚えられないので自分から質問するよう気をつけている.自分で質問を作れる範囲でしか理解できないのだが,話から質問の数だけ理解できるので,今までそれでやってきた.理解していることは少ないほうだと思うけど,確実に理解できたことは少なくないほうだと思う.
ビジネスではストーリーで売る手法が溢れている.でも,私はストーリーに関心がない.その代わり,私は文字に関心が向く.私はストーリーを文字で見ている.「横須賀」を3つの「ハ」が下から支えているなとか,「以」を2人サッカーしているなとか,「買」を陸橋をくぐる電車だなとか見ている.だから文字を意味で見ていない.変わっている人間なのだろう.それでもなんとか生きていけるのは周りが寛容だからだろうか.
ストーリーを楽しめる人になりたいと思いながらも,小説もドラマも映画も楽しくない.なぜだろう.計算は好きなのに証明は好きではない.考えるのは好きなのに長文の考察は好きではない.イエスはキリストなのに聖書は読みきれていない.多分私が好成績だったのは,解答欄の枠に文字を書く訓練を積んだからで,単語を記憶しただけで,話を覚えて説明できていたからにすぎない.それだけ考える力で補ってきたのだろう.
