お金儲けしたい,モテたい,有名になりたい.そういう価値観が薄すぎると感じた高校生の頃,私が愚かだったのは,世の中がそういう価値観なのだと考えてしまったことだ.世の中が厭になってしまったのだ.高校にいると,こうした軽佻な考えを表明する同級生は少なくなく,反対に硬派というかまともに考えている人も少なくなかった.しかし,私は両方とも耐えられなかった.後者はなぜ大衆に合わせようとしないのかと.
大衆に合わせようとすることをニーチェは没落と表現したように思うけど,高校転学後の3年生で読んだツァラツストラは,私の中で渦巻く価値観の傾きを完膚なきまでに破壊した.転学前に抱いた問題なんてどうでも良くなったし,私自身が没落しなくてはならず,その道が創造者の道だと合点したので,私の精神がぼろぼろに壊れてしまっても誇らしくいられた.それから20年,世の軽佻な価値観は今でもSNSに浮世ついている.
私の希望であり重石は,教会にある.そしてボランティアやハイキング会で交流のある大先輩方の存在がある.昭和を真っ当に生き抜いた人たち,その考え方生き方が,私にとって望ましいものである.私の両親は私の眼には浮薄に流れて生きていると映る.老いると円くなるというが,父は円くなるのが遅かったと思う.母は退職出産育児で精神を捨てて以降自分を持たなくなったが,柔軟というわけでもない.むしろ頑固だ.
私が未熟であるように,私の両親も未熟なものだ.鏡にはなるが道標にはならない.代わりに,この地域の大先輩方は,規範になる人も多くいる.思えば私は模範を欲してきた.高校生の時から.今それが豊かに得られて満たされている.高校生の時,軽佻だと断じた価値観など遠く視野にない.私が尊敬する人たちに薫陶を受けながら,道を歩んでいく.世の価値観なんかどうでもいい.どうでもいいと思うことに関係する意識はない.
