ここのところ考えることの多かった国語力に関するメモ.
国語力とは,国語の試験で高い得点を記録する能力であるとする.で,国語力を高めるにはどうするかという点で,国語力とは具体的にどのような能力を指すのかを考える.漢字を読み書きできる,語の意味の由来や豊かな語彙を持っていることとすれば,単に辞書を丸暗記すれば,大人をも超える能力が培える.この能力も確かに大切であると考えている.考案とは知っていることの組み合わせでしかないので,人の知らない要素を知っていると,誰も知らない考案を芋づる式に考え出すことができてしまえる.誰も考えていなかった要素からすべての世界を見ることは,偉大へ至る定石である.
しかし,この国語力は学生では持ち得ない,成長に伴う蓄積がものをいうことだ,とよくいわれる.ただ,この見方にも秘密がある.たとえば若いうちに漢字を全部知ってしまったら,どのようなことを考えるようになるか.造語はもちろん,造字や人工言語の創造に,無限の可能性を抱き続けてしまえる.この動機は大人になっても持続し,現在の計算機環境があれば,ことあらば推進できるので,生涯を創造に犠牲にできる極めて幸福な人生を歩むことになる.したがって,若いうちに辞典を通読する経験は,無駄にはなりえない.
で,国語力とは,読み書きによって伸びる力であるが,どのような力であるかといえば,詳しく話して深く聞く力ではないかと思う.同じ話でも聞いた内容は異なるもので.自分の聞いていないことを聞いていて,しかもそれについて深く考えている人は自分より賢いものだ.反対に,自分が聞いているはずのことを聞いていない人は無能と決めつけてしまいがちなので,自分は聞いたが周りは聞いていないかもしれないが,と前に置ける人は賢いと思う.
三十数年も生きていると,賢さがことばにまつわるもので,また,絶対的な賢さなどはなく,選択した生活環境において賢くあろうとする姿勢に過ぎないと思いがちになる.時間を掛けても賢くあろうとしなければ,賢さを学べないが,賢さが人生にとって必須のものでもないとも思う.賢くなくても生きていけるだろうから.しかし,人生を賢く生きるなら,軽く楽に,しかも周囲から一目置かれたり,頼りにされたり,感謝されたりする人生になる.そうした賢さは信仰なしには得られない.信仰を持つ人生は必ず素晴らしい.幼い時からこのような人生があることを学んでいたらと思う.よって,こう考えたい.国語力とは聖書を読む能力である,と.
