私は漢和辞典を読破して自我同一性を育んだ人物である.1度ではない,5度は読破した.読みやすい辞典だったこともあるが,1万字を収録したその辞典に飽き足らず,図書館で諸橋氏の大漢和辞典を引いているときの昂ぶりは,今でも通じるところがある.辞書を好む気持ちは未だに続き,独仏露中希羅英の辞書や,物性・BI・料理・聖書などの事典が自宅の本棚に並ぶ.
湯川秀樹が漢文の素読を幼いころから行っていたことが知られる.漢字と物理学の共通項は,その網羅性,森羅万象を対象とするところである.漢字は当時周りにあった物事を抽象して生まれたので,現代にも漢字制作者が現れてもおかしくない.スマホと読む字とかマウスと読む字が生まれてよい.新字を追加しにくい文字コードの仕組みも見直されていくだろう.
現代は過去の遺産の組み合わせで成り立つが,漢字はこれを象徴している.決められた文字を決められた組み合わせで使って考えたり悩んだりしているが,辞書性からみるとそうではない.文字の組み合わせも,文字でさえも,創造してよいものだ.谷崎潤一郎の読本にある100年前の指針とは異なるが,ユニークな新語は検索機関で上位に来るため価値が付くのだから.
最後に,私はこのような文学に関する小論をいくらでも書く種がある.こういうことを口頭で話すと,面白いと思ってくれる人たちが少なからずいるが,自分では少しも面白くない話しなのでなぜだろうと思う.自分の面白いと思う話しはもっと別のところにあるのだ.そうした面白い論点を独自に抱いてしまう躁根も辞書性の一部であるとここに付言したい.
