ふと自分が何を食べているのか,すぐに忘れてしまうことに気が付いた.昨日の朝食べたもの,それは毎日同じものを食べているので見当はつくが,ときどき変化があるので,昨日の朝食べたものは毎朝食べているものとは限らない.夕食の記憶ときたら壊滅的である.さっき夕食をとったのだが,すっかり覚えていない.ごみ箱を漁り,使い終わった食器とを勘案してある程度見当がつくのだろう.
というのは,自分は食事をあまり楽しまない性質なのだと思う.質より量なので,生麺を2人前茹でたり,バナナをまとめ買いしてきちんと消費したり,鮨は半額でやはり2人前買ってすべて食べきる.今度ラーメン二郎へ行く会があるのだが,麺の噛み応えと肉の解け方を楽しめれば充分満足できる.前後の食事を抜いて臨むのである.
昭和から平成にかけて日本の食卓は豪勢で,毎日が晩餐だった家庭が普通だったのではないか.父は外で働き,母は家事,子どもは学校の分業生活の中で,食事に関してみれば,これほど豊かな食卓を保った時代はなかったのでは.それが普通として育ってきたので,そうではない合理的な食事をとるようになった今の生活は,新しく,どこかさみしい.
古代の人間は毎日がご馳走ではあり得なかった.狩猟や採種の生活だから,毎日同じものは食べられない.それでも代謝して生きていた.なのだから昭和のような栄養の整ったごちそうを作らなくても,充分生きていける.本当に必要な栄養素を最低限とっていれば,生合成できる物質は代謝に頼れる.そう考えて食卓を任されて5年.健康上の問題は特になく,体調は頗る良いようだ.
