一昨日の光景が強烈な思い出となっている.教会礼拝の帰り,近所の街までラーメンを食べに歩いた日の出来事.河畔の桜の木が蕾を付けて,鴨が親子で群れていた様子に,意外と多くの人たちが家族で散歩していた.その先の公園では,子どもたちは親と共に連れ立って,親が20家族くらいで話し込んでいた.この光景が,強烈に自分を貫くようなヒントを与えてくれた.
私は自分が誰なのか,同一性を獲得するよりも,むしろ拡散したほうの人間だ.発達課題で失敗のほうを選んだ人間だ.青年期初期の失敗が,今の私の不自由を決めている.折角育ってきた自我が,高校生の後期に拡散し,遂には消えてしまったといっていい.だから私は誰なのかとよく考えるわりに,誰でもない誰にもならない自分を持つしかなく,その中身はない.
自分がどうやって育ってきたか,ふつうはある程度覚えていて,すぐ手近に感じられて思い出せる.そう思えば,私は育ちの記憶がほぼなく,いつも抽象的なものを考えているせいか,私は自分であるより数学モデルや外国語の単語や物理化学の話題のほうに時間を費やしていて,自分がどのような人間か思うことが極めて少ない.私は誰かって?忘れたよ.そう呟く.
発達課題をひとつでもクリアできないと,次の段階で困るという.私はとても困っている.青年期の失敗.成人中期に入っていまだに不自由さを持っているけど,私が青年期までどのような人間だったかを頑張って思い出すことは,少しは役立つのだろうか.いや,自分が拡散した青年期こそ,もっと深刻に反省すべきではないのか.こうして,青年期の自分を発達課題と共に振り返ることにしたのだ.

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