哲学者の本って,制作した年齢によって親しみ度が変わる.ウィトゲンシュタインの論考は,20代の魂にはよく響くけど,30代になって読むと当たり前のように読める.シモーヌ・ヴェイユの重力論は,30代前半までには限りなく透明に映るけど,35歳の今読むと真剣だけど固さを感じる.書いた年齢は読む人の年齢に相関して感想を影響されるのだと今更ながら思う.
すると,本には読むべき時があることになる.その年齢で読んだからこそ価値があった,まだこの年齢だからこそ読みこなせない.そういうことが日常的に起こっても不思議ではない.キルケゴールはやはり青年期の読み物だし,ドラッカーは成人期以降の読み物である.年齢に適した本を選んでくれるウェブサイトがあったら見てみたい.
年齢や人生経験に関わらず,感化を与え続ける本こそ座右の書.聖書は何歳になっても手元に置きたい本である.幼いころから親しんでおけば良かったと思う箇所があるし,壮年期にならないと分からないなと諦める節もあり,でもいつまでも教えられる章に触れたときのありがたさはすばらしいものがある.どんな年齢の読者にとっても教えられる本はそうそうない.
そんな神さまのことばをどう読むか,解釈学や解説書を読む時間を,私はほとんど作れていない.神さまのことばに近づこうとしていないばかりか,教えを自分に引きつけすぎていて,分かった気になりすぎている.本当は何も知らないはずなのに,なぜかわかったふりをして人に教えさえする.素直だそうだから許されるけど,本当に伝わっているかは別の次元の問題である.

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