どんな思考も言語で表せる.この事実は本当に奇跡だと思う.一直線に考えていると答えに向かってあらゆる語彙を動員し論理の綾を綯っていく.そうしてできた線条的文章は一見確固たる誤謬なき文章に読める.しかし,それとは異なる見方からもう一度同じ文を読むと,さまざまな不完全さが見つかる.彩りや肉をもっとつけたり,主張が異なる一文から自説を展開したり,完全性を証明し切ることだってできるかもしれない.
どこに基礎を置いて思考するかという永遠の問題に対しては,ある意味最も創造的な回答がある,それは言語をどうみるかということである.思考の道具が言語であるなら,言語をどのように扱うかで思考の幅は大きく変わる.単語,意味,文法という修辞の基本に立脚したり,情景や背景などの流れを重要と見たり,流暢さや訥々さなど発音としての表現からくる印象を重要視する人もいると思う.
私は単語と綴りとその語源のつながりを重視している.尤も,普段は言語を文字として見ている.漢字に至っては単純な部品の組み合わせとして眺めている.だからあまり思考は働かない.私は考えることを怠けている方の人間だと思う.しかし,一度スイッチが入ったテーマについては滝のように記号を駆使し問題状況を処理する.整理することは生命の基本機能だというわけで,一向に小さく考え尽くす.
この単純な方法でも思考を表現できる言語である.実際言語のどのような見方扱い方にも耐え得るようにできているところが奇跡的だと思う.どんなに愚かで呆れるべきで,間違っていたり悪い思想が込んでいたり,笑い飛ばすべき言説を混じらせても,言語は言語たりうる.それは言語の成せる技.これからもたくさんの愚かで正当で微細で大胆で失礼で活性的な思考を残し続けていきたい.この言語の奇跡を活かしつつ.
