自分の頭で考えることがいかに難しい時代か.ウェブにもYouTubeにも無尽蔵の欲しい情報が存在し,勧めてもくれるので自分が何に関心があるかさえ分からなくなってきた.情報を満足するまで見聞きし見聞を広げたはずなのに,実行できることは自分が古くから関心のあるいくつかのことに過ぎないし,そもそも情報が伝えるままに真似して実行する自分が情けなくもなる.自分で考えるってどういう営みだったか.
見聞きした情報を構成する,つまり組み合わせたり結合や分解をさせたりすることが考えることである,と21世紀の哲学者たちはいう.今更自分で1から10まで考えたって,新しい10は出てこない.そういう諦念は一理ある.しかし1から10まで自力で考えて結論が得られないとの保証はない.新しくなくても自分の肚に落ちる結論を出せればそれは新しさより大切な性質の結論である.それが自分で考える目的だと思う.
自分の頭は自分しか持っていないし,この持ち物はなんでも無尽蔵に生み出せる.そう思っていたほうがよく使うものだ.むしろ酷使してしまう人が増えているから新しい問題が山積するようになっている.頭を休める時間を持てとかそのためのアイテムを仕入れるとか食事や運動と睡眠だとかいうのは,自分の頭を守るためである.頭を使い過ぎて起きる問題を網羅した哲学は,接続過剰論の他にまだあまりない.
一体,自分の頭で考えることが重要なのか,休むことか.練習を続けることなのか,サボって節約することか.行動を制限することで成長できるのだろうけど,働き過ぎず定時に帰りましょうという策は情報通信社会だからこそ出てきた考え方.コンピュータが相手になってから人間の生活が変化していることさえ押さえれば新しい動きにも順応できる.が,そういう思考停止の言明に価値が出ている現代的悲惨である.
