私が歩くことが好きであるのは,歩く時間が考える時間であるからだ.いつも自宅を出発する前は頭をある考えに占められていることが多く,それを流し去るために歩き出す,そういう面がある.歩き終える頃には問題は解消しており記録できるまでになっている.歩く間に脳の毛細血管に酸素が行き渡り,走ると多少なりとも脳が物理的に動き,思考がいい具合に中断したり進んだりする.疑問は歩きを止めてスマホで検索もできる.
この思考と脳の運動の関係は,誰でも知っているようでいてそうでもない命題である.悩み苦しむ人に歩くことが有効であると教える人がいるだろうか.考えを広げるために歩くことの意味を知る人は多いだろうか.アイデアが尊ばれるこの時代にあって,アイデアがいつまでも至上命題になりがちだけど,アイデアを産む方法自体がアイデアとなって商品化される場合も増えてきた.ジムやカフェやスポカジなどである.
歩くときに私が好むことは,音楽をかけることである.とはいえイヤホンをするのではない.耳には何もつけない.道路を走る車の音を聞き入れながら,頭で旋律を繰り返し反芻するのである.この訓練を行っている人は少ないと思う.私の溺愛するゴールドベルク変奏曲は,正確に反芻しようと思ったら一生かかると思われるほど多彩なので,生涯歩くに困らないだろう.また,最近は思い余って歌いつつ歩くことも増えた.
歩くことは,自分の意識と身体との対話になる.街と自分,つまり透明な意識と常に揺れ動く身体とが,自分の日常を形成していたことを知る.ストレスは意識や身体の形を変形させる力であって,平常の形に戻せればストレスは消えているといえる.自分の正常な形に戻すには,普段と異なる動き,一番自然な自分だと感じられる時の動きをとり続ければ良い.そうすれば自分の定形がわかり,ストレスがなくなった時の形に戻れる.
