ギッシング「ヘンリー・ライクロフトの私記」を読んでいる.46歳で亡くなる直前に刊行された晩年の作品.当時の有名な雑誌に匿名で連載されたという.彼は「三文文士」という作品で有名になったイギリスの小説家.この私記を読んでいると,文章に物書きらしい巧さも退屈さも兼ね備えられていて,田舎で静かに暮らす中で巡らせた考えは,なかなか面白味のない内容だったのだと想像させられる.
晩年をどう生きるかについて,36歳の私はよく考えるようになっている.私が通う街の教会の賢い方々の暮らしをよく観察している.こうなれれば老後も豊かだろうという暮らし方がよくわかってくる.ギッシングはキリスト教と縁がない人だったらしい.多分私も受洗していなければ,晩年に彼のようなことを考える物書きになっていたと思う.やはり幸福に生きるには教会が必要だ.豊かな想念をふんだんに提供してくれるから.
彼のような才能のある人物がどうしてキリスト教と縁がなかったのか,不思議に思う.パスカルでさえジャンセニスムではあったが聖書と向き合った.ギッシングは古今東西の文学や歴史に通じていたというから,聖書も本として持っていたはずであり,少しは読んでいただろう.しかし,この私記に聖書の記述は滅多に登場しない.彼の人生において神は見えない何物かにすぎず,神も彼の心情を癒そうとはしなかった,のだろうか.
文学者にはキリスト教が必要だと思う.そうでなければ文字通り三文の価値しかないものを書くばかりだろう.魂を救うには魂が救われていなければならない.人生の哀愁や憂慮について同情されるような物を書くくらいなら,聖書の中の一句を心に刻んだ方が益しではないか.身近に教会がない人にとって文学は救いの泉かもしれない.しかし,真に人の心を救えるのは神のみことばだけであるはずだ.
