生きている実感をもたらすものは何か.言葉だ.言葉が生活を彫り出す.最近そう思う.言葉のない時間は,自分がここにいる感じがしない.何か自分が匿名の人間のひとりに過ぎなくなって世に流通するかのような錯覚が普通になって,自分の特徴や地位や財産までも,何もかも,忘れている.しかし,言葉を話したり聞いたり読んだり書いたりしていると,自分の使う言葉や人が使い会した言葉が,自分に残る.
人生の目的やお金を使う目的は余暇であると最近結論したことによって,先週末は暇を持てた.何事も急ぐ必要がない時間.その時間に私は海外の古典文学を読んだ.セネカとトーマス・マンである.これに大変贅沢な感銘を受け,そうか余暇が大切である理由まで考えていなかった,余暇でしたいことは読書だ,読書によって人生が豊かになるとそう気づいた.なぜなら,言葉は自分の人生の実感を掘り出すからである.
余暇にこそ読書したい.色々な話を聞くことが楽しいので,色々な話を読むことはもっと楽しい,なぜなら,古典とは多くの人たちに好まれて残っている話であるだろうから.セネカは2千年前である.2千年も前の話がいまだに本屋で売られている.読者が多くいるのだろう.古典とはそういうもので,時代に関係なくいつの時代の人が読んでも面白く豊かになる話である.そんな話を残せる人はすごいと思う.
きょうの結論は,本を読みたいがために余暇を作るということ,何もしない時間も大切だと思うけど,何もしないままではなくて文学を読むことで人生の時間が豊かになる.文学の中の言葉が私を刺激し考えさせ,その時間を生きる私を具体的にするから.彫刻家が材料を掘る鑿のように,文学の言葉は私を彫刻する.そうしてできた塑像は完全な形で永遠に持続するものではないけど,そのうちのいくらかは確かに永続するようだ.
