この部録で日本語の記事を1,300件余り書いて思うのは,日本語の構造が見えてきたことで言語の構造も透けて見えてくるということだ.日本語だけでなくて,色々な言語が,単語や文章や文法が何を指し示すための言葉で,時制や態や級が何のためにありどのような効果を文中にもたらすか,あるいは単語の選択で文章の格調や難解さが決まるので単語や構文の選択は重要だといった認識を最近得るようになった.
多分,この部録で日本語を使っている中で,言語一般に対する感度が上がり,文章の美しさの基準だったり単語選択のこだわりのようなものを日本語で持つようになったため,英語をはじめ他の言語においても同様に格調や平易さを確保する文章技術を求めるようになったのだと思う.文芸である.修辞学が気になっていて,ギリシャローマ時代の文献を日本語で当たっているが,当時の修辞法は高度なものがあると思う.
わかりやすくて格調高い修辞.特にローマを代表する哲人セネカの文章は特に当てはまる.原語も見てみたくなる.シェイクスピアの使う英語や,ジョイスのユリシリーズ,ウンベルトエーコあたりも英語として気になる.サマセットモーム,ヘミングウェイ,フィッツジェラルドあたりの文の調子もいずれ真似してみたい.現代まで読まれる大作家の文章の作風を多く見てみたいという願いが今確実に心の中にある.
言語で表せるものは何で,どんな構造で人は物事を記述でき,言語の限界を見つけることはできるか.そういった問題意識を持っている.既存の単語や文法で全ての事象を書き尽くせるとは考えていない.絵なら絵だけで,写真なら写真が,音楽ならWEBなら造形なら,それぞれ得意とする表現形式を持つ.しかしどんな表現手段でも言語でなら表せるだろう.そんな越境的な布置でもって多言語にあたるのは珍しいのだろうか.
