哲学者の文章は流石に破壊力がある.特に後々の大哲学者に影響を与えるような原典的作品は,気軽に買えても気楽には読めない.読んだら必定,変わってしまう.だから本当は用心しなければならないが,面白いので読んでしまう.そして,自分もまた哲学の病魔にかかってしまう.それは救われるということも含む.真理に近づくことでもあるだろうし,真理を掴み取ることにもつながるだろう.
セネカを読んで服をもう買わなくなった.フィッツジェラルドを読んでファッションをもう極めようと思わなくなった.プラトンを読んで片手間に読書しなくなった.それらはまだ優しい.ショーペンハウアーは劇的といっていい.彼の文章は破壊力がある.そして,その残骸は多くの実を結ばせる気配がある.そういう著作を残せる人こそ真に偉大なのだろう.私はそんな人になりたくない,と読んでそう思った.
ショーペンハウアーが評価されたのは晩年70代のことだったらしい.若い時に評価されるとその分お金も入ってくるし人気も名声も得られるので,どうしても世に迎合した哲学になりやすい.多分ニーチェはその点に気づいていてわざと晩年に主著を残し死後に見つかるように亡くなった.だから彼も偉大だ.後世に痕跡を残すほどの破壊力を持たせるには,作品を発表する戦略も重要であるらしい.
晩年に至るまでの生産時間は,決して休息ではない.破壊をもたらす時間だ.現世に問うのではなく,後世に問うのである.この差がいかに異なる視点かということだ.主イエスキリストがそうだったように,自分が死んだことで自分の教えが圧倒的に伝わる,そういう信仰運動を哲学に持ち込んだのが,ショーペンハウアーでありニーチェである.主イエスに倣うのであれば,その側面は実はいくつもある.
