私が今の教会に通うようになって3年が経つ.音楽の師匠と出会い,声楽の世界に弟子入りし,合唱団にも入れた.そのきっかけがシューベルトの「An die Musik」だ.合唱団のオーディションの課題曲で,この歌で受けて入団できた思い出の曲だ.今でもYouTubeでこの歌を聴くと当時の思いが蘇る.それは30代半ばまで涸れなかった私の心象風景である.いわゆる「精神の持ち主」,印象を強く受け付ける精神である.
今はもう物事に強い印象を味わえなくなっている.ある程度芸術に対する知識も積んできたし,表面の印象にとどまらず深く味わえるようになったことを意味する.だが,自分の抱いたイメージの中に陶酔したり,具体的なイメージを抱くことがめっきり減って,音楽の楽しみ方がまるで変わったと云っていい.でも,昔よりより強く楽しめるようになったことは確かである.イメージに惑わされなくなったからだ.
これは訓練の賜物で,一般の人はイメージの水準に戯れているのだろうと思う.かつての私もその一人だった.このイメージの戯れは心地よく,芸術に関心を寄せる目的であるだろうし,生活を彩る芸術の位置の主なところを占める性質だ.だから,芸術に進む人がこのイメージの世界を脱却しているときくと少し驚かれるかもしれない.なぜなら,芸術を生み出す当の本人がイメージの世界の住人ではないと知るからだ.
これは逆説的な結果だ.そして,過去のほとんどの芸術家に当てはまる.正確には,どんな芸術家もイメージの世界に戯れる時期があったそうだが,いずれ脱却している.芸術は印象が全てであるというのは非芸術家の見方に過ぎなくて,本当に芸術を愛する人たちは,構造や体験などもっと先に進んでいる.若いうちは印象にとらわれるのが幸せそのものだが,そこにとどまっては印象でしか物を見ないだろう.
