今幸せを感じようと思ったら,それは簡単だ.イエスキリストを思えば深い幸せが訪れる.クリスチャンでなくても,今目の前にある文庫,動画,家具家電,街並みやインフラは,今この時代に生きているから受けられるわけで,昔はそうはいかなかったことを覚えれば,今が幸せ.食事でき運動でき眠れることが幸せ.家族が身近にいることが幸せ.幸せを覚えるのは簡単だ.今の身の回りのことを感謝すれば良いのだ.
そんな即座に感じられる幸せである,自分が幸せになるために生きるのは目標が小さ過ぎると思う.自分が幸せになることは簡単.自分が幸せになることは対人関係における義務である.自分が幸せでなければ誰をも幸せにできないだろう.誰かを幸せにできる人は,社会的に大変価値のある人物である.私もそうなりたいと願う人は多いだろう.これはしかしそう簡単なことではない.
不幸せには色々な複雑さがあって,不幸は個性的だ.幸福は単純なので簡単である.でも,不幸は人によって様々だ.不幸の坑に入り込んで抜け出せない人を光明の出口まで引き出すことは,そうできることではない.誰もが抜け出せると私は信じているが,私は聖書信仰と6年もの時間がなければ不可能だった.誰もが簡単に幸せを感じられる状態になることは可能なことだ.でも,そうなるまでが難しい.
私はもういつ死んでも後悔なく,どのように死んだって構わない.今日出かけて突然事故に遭っても,帰りに刃物で襲われ刺されても,私は死んで良い.私は生き切った.そうここのところ毎日思う.「自殺が許されているのは完全に幸福な人だけである」という至言がある.私は自殺も常々選択に入れている.誰かがショックを受け悲しむからしないだけで.今のこの簡単な幸福状態に老いても耐えられるかどうか.
