書斎のポエングに座り,YouTubeで悲愴ソナタ第2楽章をリピートしながら,イタリア人にまつわる本を読んだ.最近外国の文化について関心がある.上司がフランスの大学出身で,行動原理が全く掴めず一緒に働いていて苦しい.そこで,外国の文化について見識を持ってみようと考えたのがきっかけだ.昨日はイギリスの紳士文化,一昨日はフランスの料理人の仕事論,今日はイタリア人の行動パターンといった具合.
今まで私は民族性とか世代とかパーソナリティを信じていなかった.「誰か」のことではなく「誰も」にまつわることなのに,なぜか「誰のことでもないこと」だと考えていた.個性を重視する時代に育ってきたこともあるだろう,異質な知り合いが少なかったためでもあろう.でも,自分は常に個人と対するのだから,集団が持つ法則などあてにしないと決めていた.そんなのは誰の心のうちにもあるだろうと.
でも,実際大人ないし中年になってみて,人間の中心が完成していくにつれ,育ってきた環境が人格を作るのだと考えるようになった.それは同時に,自分の中心が固定的に確定し,他人が異質に感じられるようになったことを意味する.今までの私は柔軟に捉えられていたものを,今では固定的に付き合うようになっていた.それは深く知り合うということでもある.その地域の歴史や経済の具合,生活様式も関係するからだ.
自分を確立するまでに経験した仕事,家族,商品,食べ物などが,今自分固有の文化を持つに寄与したと思うと,文化など個人の数だけあるだろうと思う.でも,私は日本で36年間暮らしてきただけあって,外国の様子を読み知ってみると私の行動原理とは違っているし,取り入れたり真似したりは容易にできない.やはりこの国この地域で生活しているので,余計に拘って気張らなくてもいい,私はこの土地の人間なのだ.
