10代の私には,知識がなかった.知識を使ってはいけないと思い込んでいた.周りの大人も友人も,知識を使っているようには見えなかったし,テレビの情報は活用してはいけないものだと考えていた.義務教育を終えて進学校に入っても,知識を得ようとすることに強い虚しさを覚えた.数学って何の役に立つの,勉強って何のためにするの,という他校の生徒の疑問に答えが出ず,ますます虚しさを募らせた.
20代の私も,知ることが虚しいと感じていた.すべてのことに理由があると思うことは巨大な妄想だと考えていた.理由なんてないと考えた方が人生は充実すると本気で信じていた.考えてはいけないと考えていた.両親は考えないようにしなさいと言うばかりで,これでいいのだと思っていた.いくら本を読んでも知識が身に付かなかったと今振り返って思う.その分,感性は鋭くなった.それが武器だった.
27歳で信仰を持って一変した.妻との出会いが大きかった.クリスチャンホームで育った化学者だ.物事に理由を考えて良いのだ,知識を使うことは楽しいのだ,知って知恵を養うことは生きる喜びなのだ,と初めて知った.今まで虚しいと感じていたことが完全に反転した.そして,一から学び直すことにした.小学校に入り直したようだった.今まで一体何の教育を受けてきたのだろうと思ったものだ.
そして今,もう一度大学生の学びを復習したいと考えている.知識を使う楽しさを覚えたからだ.考えて良い,それも自由に.知って良い,これも自由に.それらはすべてを意図的にするための義務でもあるからだ.社会の大人は,全員がこのように知識を使って生きているわけではないだろう.情報を知識にして知恵にする過程が身に付いていない人もいるだろう.今一度,基本に忠実に,学び直しである.
