中学の3年間と高校の2年間,私は何も話さなかった.友人はいなかったが,成績は良かったので尊敬された.高校2年の時は学校に不適応となり,授業には出席したが遅刻や早退が多く,図書館や書店で哲学や数学の本を読んでいた.高校で学んだことは,いまだに私の思考を形成しており,私が哲学や数学の勉強を趣味にして飽きないのも,当時の授業や放課後の経験が大きいからだ.同じ体験をした人はいない.
私は用語ひとつとってもわからないと思っている.例えば,経済って何か,自由って,人間って,言語って,何だ.言葉は使い方が人によって違うと思っている.だから人の数だけ意味があると思っている.なかなかそう考えている人は少ないようで,今までに会ったことがない.ゆえに話を聞く能力が高く見えるらしい.説明もわかりやすいらしい.性格が良くも見えるらしい.すべてこの言語観によることだ.
話さなかったことを後悔することはない.もし少しでも話していたら,進学校である高校を辞めずに済んだだろう,ややこしい病気にもならなかったろう,職にさほど困らず収入も今の倍はあったろう.でも,そんなことはどうでもいいことだ.肩書も障害も収入も,私はどうだっていいのだ.私は自分が納得する時間を歩めれば何よりだ.その分,誰よりも考える人間だ.重要なことに,その素質で満足なのだ.
中高の6年間で,考えることを鍛えられた.大学で多くの本を読み,今再び読書を楽しもうとしている.この生き方は私が考えてきた人生そのもの.周りから見れば,生活からかけ離れた生き方のように見えるだろう.しかし,現にその暮らしを実現させようとし,現実のものにしているのだ.これが私の人生だ.話さなかったことでより多く考え,それを続けたことでより深くなってきた.これが私の幸福だ.
