子供の頃の私はなぜあんなにも熱中できたのだろう,と最近よく考える.学業を修めるほかに没頭できる趣味がいくつかあり,何年間も我を忘れて熱中した.その純粋な行いはいくつかの受賞と検定合格に結びついたが,高校でそれは崩れた.それ以来,純粋に熱中する気持ちを忘れて生きていたが,熱中する傾向は持ち続けていて,今思えば20代はずっと,意義のあると思うことに没頭していた.純粋さを忘れていなかった.
子供の頃の没頭は,純粋にそれをすることが好きで,意味など考えずに行っていた.10代で模索が始まり,20代になると意義のあると思う活動に熱中するようになった.いくつかの研究成果や今も続く職業技術の習得に結びついた.30代になると信仰のほか趣味として楽しめることを探すため,仕事以外の余暇を色々な人に会ったり時々旅をしたり本を買って読んだりしてみた.満足のいく趣味や余暇活動が見つかった.
探索することが当たり前になり,仕事と余暇という標準的な枠組みで生活を考えるようになり,礼拝とボランティアと散歩など時間の使い方が決まってきた.この習慣は満足のいくもので,20代までのハングリーさは今はない.純粋な気持ちもわりと残っている.人生を豊かにすることが意義となったので意味を模索することはもうあまりない.この模索が止んだことが,何か欠落を思わせるが,これは安定の確立でもある.
趣味を継続するにはどうすれば良いか,と思って子供の頃を振り返っていた.今は趣味の時間は思い立った時に取り組み,忘れたり飽きたりしたら無理して取り組まない程度に考えている.毎日継続するようなことはできていない.でも,大人になってからの趣味は大成を目的としない.楽しむことが何より重要である.色々な趣味に触れる中で新しい楽しみを見つけ少し嗜む程度でも,ひととき楽しめればそれで良いのだ.
