生きる意味を失うのは簡単なことだと思う.神さまとの関係を断ち切れば良いから.今生きているということは,神さまがまだ生きる用があると生かしているからで,もし用が済んだならすぐに命は奪われるだろう.生きているなら生きる用がある.これはどんな人もそうだから,どんな人も生きている意味がある.神さまに生かされている意味がある.それを見失うことは簡単で,祈らなければ良いだけだ.
例えば,お金のために働いている人がいるとする.貯まっても年間数十万円.1千万円を持ちたいと思っても,10年以上かかる.そしてその貯める目的は老後の医療費や介護費用で,家族に過度な負担や迷惑をかけたくないため.つまり,今働いている理由が静かに死ぬためなのだ.やり切れるだろうか.何のために労働に時間を提供し,精神を犠牲にしても,その目的は死ぬためなのだ.そんな人生で良いのだろうか.
持続する幸福を消し去るものから離れ,幸福を持続させてくれるものを祈り求め,幸福を最大化する.その幸福は見えないものだ.その見えない幸福を最大化するために生活の全てを最適化する.この原理で生きれば,誰にも迷惑をかけずに幸せを享受できる.そして,できるだけ多くの人に,見えない幸福を最大化してもらう行動をとる.そうすれば地球上の見えない幸福の量は最大化する.現代版ベンサムである.
私は三十数年間生きてきて,見えない幸福を追求することほど好ましい生き方はないと思っている.そしてそれはお金を必要としなくても無尽蔵に生み出せる.そして,この追求を阻む要因を避けることで,いつでもどこでも追求を再開できる.つまり,私の提唱する生き方とは,見えない幸福を最大化するよう人生を最適化することであり,これをミルの自由論などを参照しつつ書き残しておきたいと考えている.
