なんのためにこの世で生きるのか,という問いに対し,ある老練の牧師は,宣教するため,と断言した.この言葉がかなりの知恵の言葉なのでは,と思い始めている.何かのために生きています,と人が言う時,この世の何かのために生きていると述べる人がほとんどだと思う.仕事,趣味,家族その他.そういった此岸的楽しみのために生きているという.でも,それらは天国へ持って行けはしない.その程度のものに過ぎない.
せっかく生まれたのだから何か楽しもう,と考える人もクリスチャンの中にもある.楽しまねば損,という考えだ.それも一理あると思う.楽しめることを持っていればそれでいいと思う.しかし,私のように楽しみを探さねば人生を楽しめない人間もいる.楽しみがわいては消える人もいる.コヘレトも一切は空しいと言った.この世の楽しみを人生の目的とするのは軽薄だと思える.その点,宣教を目的にするのは知恵だと思う.
宣教とはいえ,生涯に数回でも多い方だろう.人生に生きる目的がそもそもないと聖書では考えるので,強いていえばという前提を読み取れる.宣教のためだけに生きるのではなく,強いていえば宣教かなという感じだ.この世で生きる目的はない.でもこの世に生を享けた.何かしなければならないと意気込まなくて良い.何もしなくたって良い.毎日をぼうっと過ごしたって良い.現代はそれを許さない風潮があるけれども.
昔実家にいた時,就活をしないで朝から晩まで炬燵で寝ていたら,父から何か生産的なことをしなさいと諭された.当時はやりたいこともわからなかったので,やることもないまま外を散歩したり,歩いて1時間程度の駅街に出かけてみたりした.今思えば,この世との繋がりを持てとの言いだったのかもしれない.しかしそれが後に執着や苦しみを生むきっかけになった.何が良いのかわからないものだ.牧師の言葉は傾聴に値する.
