20世紀に新しかった概念は,今となっては当然になっているものが多い.サイバネティクス,モデュロール,プラセボなどなど.ここでは20世紀を「身体と発見」の時代だったと括ってみたい.20世紀に成された発見は,他の世紀に比べ大量かつ独自で,影響が永続している.私たちは多くの発見がなされた時代を過去に据えつつ,多くの発明を期待される時代を生きている.発明とはいえ,期待される性質は端的に「計算と表現」である.結局,Webと消費の関係ばかりだ.
この10年で普及したスマホをただの連絡手段とみる人は減り,メッセンジャーアプリだけ使う人も少ない.Webコンテンツを誰でも簡単に作れる機械としてスマホを位置づけることがふつうである.いったい何のためにWebコンテンツを作り続けるのだろうか.何のために表現し続けて生活を作っているのか.多様な価値を作り出していくことに新しい価値があるのだろうか.なんだか考えてみるとよく分からない.深く考えずに作ってきただけだったかもしれない.
快が大きくなるように表現する.私の基準はそれだけにすぎないと思う.何のために研究するかといえば,自分の人生の問題を解決する枠組みを見つけたので,それが本当か確かめたくて生きている,そんな節がある.結局,計算式と式表現で成り立つ世界が心地よいのだ.自然は数式で書けることを常に認めていたい.理学修士の矜持である.今世紀は文系の表現と理系の計算がもてはやされる時代であるが,一時的な歴史上の需要にすぎない.
というのは,新しい表現を行える領分がとことん減っていて,前衛の発見が不能になってきている気がするのだ.なるほど新しい事柄などだんだんなくなっていき,ついには情報は飽和し,世界がどうなるか誰もが知るような時代になってしまうだろう.新しいことを見出す人がいなくなり,新しいものを発明するわずかな人が中心になって形成されていく社会.そこから逃げ出したい人のために時間旅行を発明する人が,22世紀になっても現れることを期待する.
