話を理解するのが簡単になり楽しくなくなっていた最近,認識って面白いと思った.理解と認識は違った.理解は文章や話の内容を記号から概要を掴むことだ,とすると認識とは理解の点を点とつなげて線どころか面にして把握することだ.物事が立体的に見えてくる楽しさがある.その見えてくるとは想像することであり,自分の知識や経験をつなげて自分なりの世界観を持つことだ.それが面白い.そうして初めて人と比べられる.
認識を多角的に構造化し精緻にしていく過程は,すぐに思いつくこともあるし,理詰めで導くこともある.どちらにしても,複数の視点による知識や経験が必要で,それらがつながって見えるのが楽しい.散歩中にエクステリアがかっこいい家があり,そこにこだわる住み主の職業やその家を買った方法なりローンの額,ここに住む気持ち良さや普段どこで食料を買っていて,家族は年齢的に独り立ちし夫婦と犬で暮らしているのかとか.
要は今までの知識と経験から想像する遊びのことなのだが,その想像の根底には私の趣味や興味の偏りがあり,それが想像の個性となり,人のそれと比べられる.もちろん間違っているかどうかは問わない.ただ私の個人的楽しみのための遊びであって,どこか文学や随筆に近いものがある.フィクションなので,事実に基づかなくてもいいだろう.その戯れが,今まで得てきた知識や経験の努力が,報われた形だと感じられる.
面として認識することは,散歩中に限らない.ウェブ検索は,点を得るには便利だ.動画も同じ.テーマに絞って作られているからだ.それらで得た知識を経験とつなげて想像の戯れに供する.この遊びは勝手なもので,時には失礼なこともある.事実の創造として扱ってはいけない.この遊びで事実は何も作られない.ただ,世界観が形成されるので,今後の学びや経験から得られる事実を方向づける.人生の意味ができてくるのだ.
