小さく生きる.これは私の標語だ.大切にしている.これからも大事にして生きていきたい.私はもうやりたいことはやってきてしまった.達成したいことも達した.何もかもに満足している.いつ死んでもいい.古代は40歳といったら老人らしいが,今の時代はまだ若い.37歳の今でもう人生に満足したと言えるのは老いた考えだろう.でも,私にはもう,もっと求めたい欲の対象がない.これだけ探してもないのだから,ないのだ.
欲がないなら,ないなりの生き方をとればいい.それだけの話だ.そこで私は,小さく生きる,という標語を考えた.消費を小さく,稼ぎも小さく,所有も交友も小さくして生きる.こう生きるには時間が余るので,趣味は広がってしまうだろう.でも,その趣味も,自然を感じたり散歩したり文字を写したり歌ったり読んだりぼうっとしたり,つまり多くの投資を必要としないことを趣味とする.そこから楽しみを抽出して生きるのだ.
そうやって暮らしている人は多くいる.そういう思考を著した本を読んだこともある.そうやって生きてもいいのだ.これを自分の人生に許せるし,社会的にも許される時代になった.最大化,拡大拡張,過去最高の更新を是として生きなくたっていいのだ.もういいのだ.もっとを求めても限がないのなら,もっと求めても小さく生きても同じことなのではないか.興奮や刺激を多くするのか,満足や平穏を日常とするか,の違いだ.
今の課題は,興奮や刺激を是としている人にあまり関わらないようにする方法である.満足と平穏を是とするはずの教会にさえ,興奮と刺激を求める人もある.対立する概念ではないとその人は理解しているのだろう.ただ私は興奮と刺激を避けたいと思う.ドーパミンのデメリットを痛いほど知ってきたからだ.もういいのだ.興奮と刺激を求めなくたって私などの脳は簡単に老いない.小さく生きたって老いを楽しく迎えられるだろう.
