仕事に拘束されることがありがたいとしばしば思う.もし仕事がなければ,やる量は少なくなる.仕事が人生に関係なくつまらないものだとしても,仕事に拘束され自分に強いることで,自分を駆動し何かすることができ,何もしなかった日より良い1日になる.仕事の拘束が終わった後の時間も,めりはりがついて退屈を感じないで過ごせる.仕事は給与を得られるだけの活動ではなく,めりはりのついた1日になるスパイスなのだ.
電車に乗ると行き先を選ばれるように,職場は人生の進む方向をある程度決めている.乗り終えたら到着場所からの行動は自由だが,初めて行く場所ならどこに連れて行かれるかわからないまま乗ることになる.職場とはこれに似たものだ.この職場で自分の大切なものを拘束され,どうなるかもわからないし,どこへ到着するのかもわからない.しかし,到着する場所は今より楽しい場所かもしれない.少なくとも今とは異なる場所だ.
仕事によって得られるものが多くあれば,失うものも多いのか.憲法によれば労働の義務があるから,失うのは当然で,捧げ与えるものである.そこで得られるものは,労働の対価であるよりも,何も得られなかったはずの活動によってもたらされた余分なものである.その余りを大きくしようと図るよりも,その余りを得られること自体に感謝していきたい.あるいは,失うからには何かを得ているのだから,それを見極めていたい.
こう考えられるのも,職場が激務ではないという点で恵まれており,職位も重くなく仕事内容も軽度のものだという背景がある.私の能力に比べ軽いという意味であり,今後私の能力を超える立場に就かなくてよいとの見通しが立っている現実がある.気楽なものだ.労働人生がまさかこんなにも緩慢で軽快で,この歳で早くも自足できるとは,若い頃には思いも至らなかった.拘束される意味について考え,軽快なる進歩を確認した.
