自分の中の課題のひとつとして,牧師のことがある.今月は毎日牧師のことが頭から離れなかった.初めは目の上の瘤のような存在だったが,色々な人に話を聞いているうち,自分を反省する機会になった.今も反省は続いている.牧師は自分の感情や思い出を豊かに話す人だ.その語彙やストーリーには作家性があり,天賦の豊かな賜物なのだなと思う.でも,彼女の話は私には理解できない箇所がいつも必ず多くあり,困っていた.
本人は,自分の欠点や資質のなさを理由として話すのだが,それでは私も何も学べない.彼女の属性を考えれば,人と会う日曜礼拝の時に,世間話のていで自分の思うことを自由に主張してしまいたくなるのもわからなくはない.私は既婚者なので自分の主張ばかり通せていないという事情もあるけど,主張が一方的で多い人とは,私は今までうまくやったことがなく,牧師も苦手な人に当たる.でも,神は愛せよと牧師に私を招いた.
それで聖書で自分を砕く1ヶ月となった.私自身で勝ち取った幸福に籠ることができなくなった.私自身の理解は常にではないが偏っていたり奇妙で珍しかったり,間違っていたのかもしれない.しかしそれは私だけの欠点ではない.そうやって,自分の理解を少し引いて捉えるようになった.私はこう理解したが,どのひとも同じように理解してはいないし,そう同じ理解に達することを期待するのも正しくない.人はいつまでも違う.
フィリピの「心をひとつに思いをひとつに」とは,人々が普段互いに違いすぎることを前提したことであり,別に自分の思想や考え方を人に合わせて変更しなさいという意味ではない.牧師を観察しているとそれでいいんだと思える.西洋的で日本的ではない,というか私が育ってきた環境からすれば新しい概念である.私は当然人と互いに異なっているというその前提自体が,私が弁えていなかったことの全てであったかもしれない.
