説教はそのまま鵜呑みにするものではない.信徒ひとりひとりでちゃんと考えるための材料や視点を提供するためのものだ.そうある牧師から聞いた.私は今まで説教をそのまま受け取るものだと思うばかりだった.私って神様から人格を愛されているのに,私には考える自由さえないのはなぜだろうと思っていた.というのは,私は神様について,説教の内容について,疑問を持ったり批判したり考えてはいけないと思っていたのだ.
私は人によく,私も考えていいですか,と考える許可を乞う人だ.思考の自由がないものだと思って生きている.父の影響がある.父は考えるなとよく言っていた.父自身考えないことで楽に生きられるようになった,そのことを人生訓のように語る人だ.その結果,考えることが好きな私は,考えないようになるためにはどうすればいいのか考えてしまって,18歳で精神が壊れた原因もその線にある.私は考えることに今も不自由する.
考えることの不自由さを,私は身の回りで常に感じる.考えてはいけないと毎日のように自分に言い聞かせている.考え過ぎてしまうことも役に立つし素晴らしいことなのに,私は考えることに制限をかけてしまう.そんな人だから,説教を考えずに飲み込む癖がついたのも自然な成り行きだ.その線で自分の思考を縛ってきたので自分の人生は変わらざるを得なかったし,望む方向に進むとも限らなかった.自由が理解できなかったのだ.
先日妻にもっと考えろと怒られた.私はもっと考えたいのに,考えてよいのか聞かないとわからない.考えてよいと言われたら考える,という癖を治したい.常に考えて生きたいのに,そうできない.もっと考えたいのに,考えてよいか許可がないと考え始めることができない.でも,これからは振り切ろう.考えてよいのだ,常に.神様は私にもっと考えてほしいはずだ.神様はいつも私を考えさせてくれるから.もっと考えよう.
