信仰を純粋に信じることだと思っていると,意外と不自由に囚われる.この半年間,信仰と科学技術や,信仰と趣味享楽の関係について考えてきたが,信仰を考え直すことはしなかった.信仰とは聖書の言葉を素直にそのまま信じ込むことだと思っていたが,信仰として受け取った言葉の内容は,よく考えるとわからないことだ.本当に聖書にそう書いてあるのかと問われれば,私が聖書からそう読み取っただけだと言うほかない.
聖書の内容は人によって受け取り方が違う.これは信仰の仲間で話し合うだけですぐにわかる.つまり,本当に正しい解釈はないし,解釈は唯一でもない.そう考えると,もし信仰で何かを否定したり制限されたり,よいことを避けてしないように抑える時,その解釈で自分の自由が制限されている時は,その解釈を採用しない自由もあるのだ.自分の大切にしていた価値観が否定制限される解釈は,自分の解釈ではないとしてよいのだ.
聖書の解釈を自分の行動や思想の正当化に使ってしまうのは人間の性質である.自分を苦しめたり束縛したりする言葉や存在に出会った時,それに囲われたままであったら,自由は確保できない.この半年以上,私の場合,それがイエスキリストであった.イエスキリストは私を迫害するとさえ思った.しかし,そう思わされてしまったのは私の解釈のためであった.自分自身でもっと積極的に解釈する者として読み聞きするべきだった.
信仰は人によって違うのが自然で,価値観も賜物もみことばが刺さるタイミングも,神の采配で個別に出会わされる.私が制限されるなら,自分を制限することに意味があることも多いと思うが,自分を制限しているのは自分の聖書解釈に過ぎないこともある.自分で自分を縛っているだけだということになる.それは愚かに見える.神は私を人格的に愛し,自由を与える存在だ.もし自分が制限されているなら,それは御心ではない.
