パスカルが気晴らしを刺したのは4世紀も前になる.高校倫理の資料集で読んだ.先日の礼拝で,ヘンリナウエンという神学者の言葉が紹介され,自分の不安と恐怖の沼を直視しないですぐ安易に気晴らしに逃れる現代人をよく描いている,と牧師が述べていた.気晴らしが悪いことだと感じた高校生の私を思い出した.語った本人である牧師は,私にとっての気晴らしは食べることだと談笑し,そこまで刺さっていない様子だった.
牧師は陽気に批判する.物事なんでも一家言する人物.私とは異なる価値観で思考し,共感を安易に述べ,感情を他気なく表明してくる.私には大変煙たい存在で,好きか嫌いかと言われたら,大嫌いな人だ.でも,そんな人物が私の教会の牧師なのであるから,長いことお世話になるしかない.良さなり美点もある人だから,忍耐の言葉のもとに耐えられるけれども,もし教会と関係ない場所で出会っていたら,即関係を切るだろう.
それで,気晴らしの言葉を私は非常にひりひりと受け止めた.私にとっての気晴らしは,クラシックを聴き,読みたい本を読み,自分の頭で考えて文章にすること,外に出て散歩しIKEAに寄ること,YouTubeで服の情報を得てアプリを見ること,それくらいである.趣味である.パスカルは趣味を持つことを否定したとは思わない.現代人は趣味が必要だ.新自由主義で物やお金の意味が失われつつある時の生きがいになるからだ.
冒頭の説教の趣旨は,自分の不安や恐怖を神に預け,信仰によって綺麗に消し去るように勧めるものだった.確かに私はすでに不安も恐怖も覚えていない.別にいつ死んでもいいし,災害で失いたくないものなど持っていないし,今事故で死んでも迷惑はかからない状態にしてある.なので,気晴らしは人生の余興で,楽しむためにある.直視する沼がすでに干上がっているのだ.談笑して語った牧師もすでに干上がった人なのだろうか.
