旅は,日常を洗い流す.いつもの地域に住んでいて,当たり前とも思わなかった些細な感覚も,旅は洗い流してくれる.おかげで,今暮らしているこの地域がありがたく思えるし,今生きている私をより確かに感じられる.難しい言葉を使えば,旅は私をも地域をも相対化するのだろう.でも,相対化だけではない何らかの作用も,旅の経験はもたらしてくれている感覚がある.人の感覚の深いところで変化をもたらすのだろう.
惰性で過ごしているな,と感じた時ほど,旅が必要だ.旅にはお金がかかる.まとまった休暇も必要だ.しかし,その投資に見合った新鮮さを必ずや得られる.旅の虜になる必要はない.毎月のように旅する必要はない.でも,定期的にでなくても,感覚が滞って生活が濁ってきたら,それは多分何かの停滞のサインなのだ.意味が薄まり消えかかり,情報に頼って意味を失いつつあるサインなのだろう.そういう時,旅が必要だ.
古代の人は常に旅していた.定住してから旅をしなくても良くなる人が増えた.狩猟や交易を生業にしていた人たちは,旅することがそのまま生きることだったろうけど,家を守る人や邸内で暮らす人々は,移動が制限されていた.後者の方が人類史上新しく現れた人々であり,人は定住に最適化されていないとも言える.人も動物であり,食料を自分で獲得するため動いていた.今は移動量はかなり少なく済んで,動かなくなった.
動くことは何であれ小さな旅である.それをがらっと違う環境で行うのが旅である.違う風土で違う街に違う様式で暮らす人たちを見て過ごすその時間は,当たり前さを感じているほど,異なるものに映る.異なる存在が必要だとこれほど言われている多様性の社会である,私の中の多様性ないし均衡あるいは心の流れも,異なるものによって確かなもの明らかなものにしていくことが,生命として密接なところで必要なことだと思う.
