株式投資から訣別した.もう株式は買わない.今年の初めごろ,SOXSを50万円買った.今グラフを見ても,とても底値に近いところで買えた.先週に入って生成AIの急騰が落ち着いたのと,ガザ情勢が米の拒否権発動などで泥沼化しているため,私は上昇必至だと思った.SOXSはそもそも半導体関連が落ちる時に上がるETFで,しかも3倍の係数がつく.半導体情勢が読める人なら,簡単に投資額を増やせる.こんなに都合の良い増やし方があっていいのかと思うほどである.先週末ごろから,やはり半導体関連銘柄が上昇をやめ,むしろ下落し始め,つまりSOXSは上昇し始めた.つまり,購入も読みも,私の考え通りになった.
しかし,私は早々に売ることにした.利益が3万円出たところで,私はSOXSを全て売った.もし今も売らずに持っていれば20万円の利益がついている.そして,これからも上がるのはほぼ確定的と思う.そう,上がるのが当然と思うほどであったのに,私は売ることにしたのだ.実は,これは同時に,株式をやめる決意が含まれた行動だった.
私は今まで,300万円の障害年金を1,000万円に増やした.株式投資だけによって.正確には少ない収入から原資も足したので,利益は500万円くらいだ.おそらく取引は200回はしているのに,マイナスで売却したことが5回しかない.ほぼ利確できた.しかし,マイナスのうちの3回は,非常に大きな損失だった.1回のマイナスがでかすぎる,そんな投資生活だった.総じて,私は600万円強の損失を出した.全体では100万円以上の損だった計算になる.
株式が嫌になってしまったのは,投資信託の増え方が楽すぎることがある.忘れて放っておけるのに,確認すると増えている.もちろん,どかっと増やせる株式とは異なり,増えた額は微々たるものであり,増え方も極めて緩慢である.でも,喜びは金額にはないと私は信じるようになった.株式で保有銘柄が+1,000,000と見ても,それは興奮ではあったが苦痛でしかなかった.お金がどかっと増えることは苦しいのだった.というのは,私はお金を増やす目的がないのだ.増えたお金でしたいことが何もない.そもそも給与を貰うたびに憂鬱になる人だ.何に使ったらいいか迷わなくてはならないからだ.お金をもらったら,使わなくてはならない.大きく貯めるのはこの世に生きる上で私の倫理に反する.その動機が自分の安心のためだとしても,人のために使わずに貯め込むのは人の労働を貪ることに等しく,悪だ.私はもう大きな資産を持つことから遠く離れて暮らしたい.そう確認した.
株式で大金を増やすことは,別に困難なことではないと思う.誰でも好きな分野は一つや二つあるだろうし,自分の職業の業界は嫌でも事情に詳しくなるだろう.業界が発展し拡大することを願わなかった人はいないだろう.私の場合,特に半導体や化学なんかは,簡単にトレンドが掴める.実際,一晩で60万円利確したこともあるし,数ヶ月保有し40万円利確したことは何度もある.また,購入時は底値で買うことがほとんどだった.底値を読むことも難しくなかった.私にとって株式が難しいのは,大きく下落する前に損切りすることだ.結局,100回うまくいっても,たった数回の大きな失敗によって,全てなかったことになる.それが株式の世界だと,私は認識した.何のために時間やお金をかけてやっているのか,本当にわからなくなってしまった.
私は株式投資している人を否定したくはない.収入が増える見込みがない人や,資産が有り余るほどの人,お金を増やしたい一心の人には,格好の増やし方だと思うからだ.そういう人がいたらむしろ勧めたいし,困難かもしれないが可能なことだ,と伝えたい.しかし,私は大金を持つ動機が持てなかった.35歳で1,000万円まで増えた残高を見た時のあの無為,徒労,恐怖.それが私の投資への全てだった.
ドイツの諺に,できるけどしたくない,という言葉がある.これに当てはまる.私にもしお金を増やしたい思いが続くなら,多分,大きな資産を築くことは可能だと思う.しかし,私はお金への興味が薄い.単なる数字だとしか思えない.そして,1,000万円という世間的なステータスは,達成したかったことでしかなく,それ以上を目指すこともそれを持ち続けることも,何も動機づけできなかった.一時的な達成,それで終えたい.私の人生にそういうことは多い.達成したら,もう懲り懲り,離れ去ろう.私は多分そんな性格,そんな人だ.
最近,給与が余りそうな場合,自分に残さず,妻に送金したり教会に献金したり募金したりしている.できるだけ持ちたくない.お金ってそんなに大事だろうかといつも思う.私は給与は上昇しない定額を定年まで受け取り,定年したら年金を受け取れる.その額は世間の基準からみても低いほうだ.でも,その中で生活することでしか,私は喜びを受け取れないことが確定した.大きなお金を持っても,私は誰か団体なり大事な人たちに渡してしまうか贈ってしまう.私が使うことは,ない.大金を避け,お金からいかに離れて暮らすか,これこそ私が生きがいを感じられるテーマなのだ.
一応,投信積立は続けていく.何もせず放っておいて,いつの間に少しだけ増えているみたいな状況は,作っておこうとは思う.使い先が見つからない私にとって,それをしない理由も別にない.でも,このままではおそらく死んでも解約しないような気がする.遺された家族に大きな資産を贈ることになるだろう.でも,私にとってそれが一番のお金の使い道だと思うのだ.一番私らしい使い道だ.世間ではそんなの損で馬鹿だと言われている.でも,そうであったっていいじゃないか.資本主義が合わないで終わった人もいる.私がそうだったと誰かが語り継ぐのだろうか,別に抹消され誰の記憶からも忘れられたって何も構わないが.それが私の人生だったのだから.
