教会。職業という点から捉え直してみる。牧師がああだったのは、牧師としては牧師が職業であるという世間的な意識があったと考えてみる。つまり、信徒も牧師も同じ信仰者である位置に変わりないが、牧師は教会を代表する管理者の役割がある。牧師は社会人経験も豊富で、それを弁えていた。聞いたところでは、プログラマとして有能で昇進もしていた。社会人として優秀な人だった。還暦を迎えたとはいえ、社会人の意識をかなぐり捨てたとは考えにくい。わたしこそ、社会人経験が10年に満たないだけでなく、就業機会に恵まれてはいないので、わたしの社会人意識が低かったと考えるべきである。牧師とは仕事、職業であり、宗教的理想があれど、常識的には職業であるから、社会の常識の範囲のなかで限度がある立場だった、と言える。教会には世間の常識が入り込むべきでないとされるが、世間の意識が投げ捨てられない背景があったと考えた方が良いだろう。
仕事。今の職場で行われているのは、法令遵守の徹底と業務の効率的縮減である。必要主義であり、不要な仕事や資産は積極的に手放すという方向である。この過程が終わると、業務が減り、わたしの中では給与の高さに見合わない程度の仕事になり、後めたさがますます募ることになるだろう。6年勤続とはいえ、世間の人たちはこんなにも簡単に働いてこのくらい多くの給与をもらっているのか、ちなみに妻は激務だというが、わたしの年収は妻の半分以下なので、飲み込むことはできるけど、わたしの仕事にふさわしい給与は、せいぜい今の7割程度だと考えている。
障害。わたしの障害は、統失が寛解して7年経つことと、2013年アスペで障がい者になったことの2つが診断された内容だと記憶しているが、本当のところは実は知らない。病名は伝えられていないし、現在どのような病状なのか、正確には知らないからだ。医師は、ストレスの緩和のため最小用量で服薬を継続するよう診断しているが、薬は適宜様子を見て調節しても変えても良いとのこと。わたしが障がい者でなくなることはないと言っていたが、わたしは今精神症状がないし、精神の機能は回復の一途で、おそらく健康な程度まで回復できると思われるが、年齢相応の水準に達するには、それなりの認識訓練ないし勉強、思考とその整理、この文章のような分析などで人格を引き上げることが必要で、だがわたし自身で特別な努力はもうあまりいらない。というのも、わたしに与えられた才能には分限と適性があり、これから20年余りで必要な知的能力は充分満足にある。もし転職する機会となったら、この適性で探すべきであって、新たな経験を求めて他業界他業種に希望を持つことはよろしくない。わたしの可能性はまだ大きく感じられるが、その方向を変えることは考えるべきでない。おそらく、その可能性を小さく潰してしまう考え方である。もし診断書を職場に提出することとなり、申告内容の相違や業務履行能力の不足で解雇となった場合、雇用保険を満期で受け取りながら、すでに絞った企業へ転職を希望したい。福祉や介護のパートには、おそらく部分的にしか適性がないので、避けた方が良いだろう。
家計。今、休日に出かける先や、読む本、食べ物の選び方に変化が出ていて、支出も多くなった。支出については、収入程度は使わなくてはならないだろうとの考慮があることや、40歳になる時期において節約はふさわしくなく人生の経験のために使うべきだろうとの考えがある。仮に節約したとて、使い道は老後の旅行か、状態悪化時の入院費用にすぎない。旅行は旅するほど楽しめるものだし、入院しないように生活する方が大事なのだから、節約のために生活を構成してしまうのは賢明でない。それで毎月収入程度の支出があるのだが、不満は全く消えてしまい、買いたいものもない。ただ使わなくてはならないという意識があるのみで、さすがに不要すぎるものは買わないが、物財は増えていると感じる。電子書籍と雑貨小物が主で、服は季節で1〜2点で推移し満足している。消費に何か方向性はないような気がするが、健康や美容には基準があり、この線で生活の質の向上を目指して物を使っているのだろう。
消費。物をすでに買い揃えてしまった分野がいくつかある。美容、洋服や小物、電子機器、基本的な文献である。買い足す必要がなければ、もうこれらを買う必要がなくなった。代わりに何を消費するかであるが、映画は向いていなかった。旅は年間数回までにしたいが、疲れない範囲で行ってみたい場所は何地域かある。食材は買う種類や買い方は決まってきたがそれで良い。書籍は今お気に入りに入れているもので大体は最後にしても良い。それ以外には関心がないか、知らない。つまり、収入くらいを消費するには、余計になる。余らせた場合の使い道もいくつか考えてあり、妻への送金、友人への贈り物、固定資産税や投資信託の積立である。用途はこれらで充分である。おそらく今後もこれら周りで支出が発生し、これ以外で大きく支出することは考えにくい。というのは、もう生活を変えたくないし、この生活で充分満足に暮らせるし、新しいことを取り入れる精神的余裕がないからである。
趣味。すでに豊富で、やることや自分の楽しいことは、いくらでも考えつける。文学作品の創作は、今後生涯楽しめる趣味になるだろう。音楽は、歌うこと、聞くこと、詞を振ることをやっているが、これも生涯続くものになるだろう。これだけでも充実するのだが、ウェブ制作関連で関係先が両手で数えられるほどできており、いつまで継続し、どのように関わっていくのが無理がないか、考えていかなくてはならない。また、ボランティアで2団体参加しており、これもいつどのように活動するか、見直す時が必要になるだろう。思考に関して、数学や哲学の探究心がわたしにはやはりまだ残っていて、これらは若い頃に志したことなので、継続して自分の人生の根幹となると思うが、これをますます太くすることがわたしの人生になる。また、教会での礼拝は、わたしのおそらく唯一の人間的体験であり居場所である。これも生涯継続できるようにしたい。これだけ挙げたことでもう充分であり、人に言ったら豊かだとされるほどだと思われる。これ以上手を広げることは慎まなくては、過剰になって壊れてしまうだろう。
不安。わたしがしばしば囚われるのは、やはりわたしに精神症状があった経験が、今に影響しているのでは、という残照のような直感である。要するに、もしわたしが精神を病んでいなかったら、わたしの年齢にそぐう精神の水準で生活できているはずなのに、何かその水準まで満たない精神容態にとどまっている原因を追究したいという思いと、今の水準ではいけないという思いが、確実にある。能力という面では充分あると思うのだが、その活用ないし言語の理解や運用の仕方や、思考や分析や論述の程度がまだ散漫で安直な程度でしかなく、これを満足に対策できるくらいになるには、まだ病状の残遺が妨げとなっている。無理をしないことが前提であるが、少しずつ活用の機会を作り、運用経験を豊富にしたい。少なくとも、もう少し緻密に、誠実に、慎重に、分析や会話ができるようでありたい。
