過去の物語を好まない人たちにとって,歴史はどうにも関心を持てない学問かもしれない.どうして好まないのか.本心では自分の過去に誇りを持つときも,それが脆くも崩れ去りそうになるときもあるだろう.けれども,尤もらしく考えてみれば,過去の栄光に縋るような言動を取る人と出会ったときのその残念な気持ちが,反面的に自分を反省させているからなのだろう.
過去の栄光.自分は昔すごかった.一度は誰でも思ったことがあるだろう.それをもし遠ざけて暮らしているとすると,今もすごいと思っており,これからもすごい,となるように生きていく人生になるのだろうか.でも,少し立ち止まって考えてみたい.すごいのは自分なのか.すごかったのは自分の力によるのか.これからもすごいままでいられるのは,誰のおかげか.
過去の栄光とは,神学的に見れば何だか失礼な表現ではないか.栄光とはイエスさまの贖いと復活を思い出す語だが,それを過去のものとしてしまうことはできない.いつもわたしと共にいてくださるからだ.いつもそばにいてくださるのも,自分に魅力があるとか,信じる力があるとか,そういうことではなくて,イエスさまの方から私のそばにいてくださるのだ.それのどこが過去なのか.
つまり,過去の栄光とは,今は自分のそばにないかつての自分の才能,みたいな意味になるが,自分の力で達成したことは自惚れになり,他の人のために行ったことは感謝に変わる.もし自分の努力で純粋に達成した栄光があるのなら,もっとよく考えてみると,自分の力による達成は,実はないのではないか.高慢の歴史を感謝の履歴に読み替えてこそ,過去の栄光を誇ろう.
