余白の読み方.物事は記号と余白でできているとすれば,記号の割合は殆どなく,記号の世界で正しく読めても,余白がそれを多様に変える.物事に絶対の正しさがない理由は,物事の殆どが余白であるからだ.正しさとは所詮人間の正しさであるわけだ.読むという現象を個人で見たとき,読み取り方や重きの置き方に,理解の壁が見える.入力の歪みと出力の偏りである.
きょう職場で上司が,私と他部署とのメールのやりとりを解釈し,少し驚けた.その上司はいつも本当にお世話になっていて,きょうもハーゲンダッツを室員全員に振る舞うほど,常に配慮に長けている方だ.英文校正やウェブデザインでも最終責任を負う態度で添削していただいている.その方が,私と他部署とのメールのやり取りを,思いもよらない方向に解釈していた.
それを聞いて私が最初に思ったのは,その方は多分システム開発のご経験はないかもしれない,サーバーの知識や他部署の仕事内容は想像もつかないくらいであるのかもしれないと,知識や経験からくる解釈であると思った.しかし,帰途考えてみれば,確かに一理ある部分はあるし,表現こそ不適切だったのだろうけど,内容はそのとおりであるともとれる.
しかし,私の中ではまだ消化しきれていない.自分の素朴な解釈と上司の婉曲な解釈の折り合いがついていない.でも急いで折り合いをつけようとも思わない.白か黒かを知りたくなる私の特性を敢えて抑え込んでみているからだ.余白は誰が見ても余白,というわけでもない.余白を余白と思わない人も,余白に流れを見ない人もいる.この余白を読むという考え方は,なんとも頭を柔らかくするようにいつも思っている.私は余白をそう読んでいる.
