人間,初めに教わらなければ,入門できない.門があることも,その先に自由が備えられていることも,知ることがない.これは今の自分のことだ.先日ある本の一節に,「読むこと,書くことは文字を学んで初めてできるようになる」と教育の意義を論じた文があった.その著者は,話すこと聞くことは,文字を必ずしも必要としないため,読み書きより易しいと位置付けていた.しかし,読み書きは何不自由なくできても,話す聞くことが死活的に難しい現代人もいる.そう,自分がそうだ.
文字で表された表現や,図形による表現は,すぐに意味まで分かる.図案化したロゴは元ネタをすぐに見抜ける.図案を自分で考えることもする.でも,話し言葉や聞き言葉は,文字にして記憶していくしかできず,記憶の容量も大してないので,話し言葉は理解が浅くなり,聞き言葉は覚えている範囲でしか理解できない.もし音声コミュニケーションがすべて記号によるコミュニケーションに置き換わったら,ストレスも減って暮らしやすくなるだろう.徐々にそうなっている気もする.
つまり,何気なく話したり聞いたりできる人,生まれてこのかた話したり聞いたりすることに不自由なく生きている人がいる.そんな人も,話したり聞いたりすることを何度も試行錯誤して身につけた時期があったのだろう.話すことや聞くことも,教育が必要なことのはずだ.でも,読み書きほど重視されないし,話したり聞いたりする試験はない.英語で話したり聞いたりする試験はあったので,私は英語なら少しコミュニケーションできる.国外へ出たことがない日本人であるにもかかわらず,日本語の方がうまくないのだ.
ASDとは,話したり聞いたりする訓練を受ければ,成人した後でも多少楽になるのではと思う.仕事仲間や配偶者との生活.ASDは話したり聞いたりする能力の障がいである.音声が記号を下回る,物静かな障がい.話しかけなければ気づかれない.発達障がい学級で,話したり聞いたりする訓練を施してほしい.私はもう諦めるわけではないが,話せないということ,聞いて理解できないということに,生涯向き合わねばならないのである.能力を故意に潰さないように自分に気を配りたい.
