昔からのことだが,知識人の教えに従っても,ろくなことはない.現代でもそうである.自分で考えるか,祈り求めるしか,正しく教えられることはない.誰かの経験則に触れて学ぶことは,多少の役に立っても,全面的に信じることは危うい.しかしそういう話しほど,面白い.だから知識人の本は,教えを乞い求めるために買う人はごく少なく,半分以上の読者は社会的キャンペーンだと思って楽しんでいる.
例えば,近代は終わるというテーゼがまことしやかにささやかれると,その先駆的提唱者は先見の明があったとて持ち上げられる.その知識人はそうなるために先回りして読んできたことを誇りに思う.知識人という職に就いて心からの喜びを感じる.それが生きがいだとすれば幸福な人生かもしれない.けれども,多くの知識人は,提唱者として学問の歴史に爪痕を残すや否や,名誉や栄光を目指してきた半生を振り返りたくなる.
社会的成功を遂げた実業家も,市民から良い評判の医者や議員や教師も,もし栄誉を得たいために頑張ってきたなら,いつか失望に終わるだろう.自分はそれほどの人物ではないとの反省から始まり,信仰を与えられるまで苦悶は続く.頭がいい子どもの苦労はここにある.周囲から期待された模範生徒は,何を期待されていたかによらず,難関大学を卒業し,社会で有為な人物として活躍する.それが幸福ならよいけれども,そう思わない生徒は早々に道を外れる.
人は何かに従って生きたい.寄り縋るものを持ちたい.この心が従うべきでない教えを生む.いろいろな苦労をするうちに,ほんとうに従ってよいものを知る.イエス師である.神さまを知って初めて,物事の良し悪しを考えるようになる.知識人は社会にものの見方を流布させる仕事に過ぎないので,いくら勉強しても神さまを知らなければいつか見限られてしまう.そんな仕事で食べていかずに済んで私はほんとうによかったと思う.
