妻は言行一致の人だ.少なく見積もっても,私と共にいる時はいつもそうだ.私は影響されて正直な人間になった.その妻が,私は太く短く生きると宣言するようになった.我が人生一点の悔いなしと妻はよく言っていたものだが,最近はその色が濃くなったよう.言行一致な人だから,そうなるのだろう,と私は思っている.
一方の私は長寿を全うしたいと思っている.小学生のとき卒業文集に将来の目標を「長寿」と書いたものだったが,つい数年前まで毎日自殺したくて堪らなかった.そんな時期をイエスに癒されたものだから,信仰は確たるものになり,毎週教会を欠かさず,たいへん幸福な時間を過ごしている.信仰が揺らぐことはないのだろう.いつまでも残るものだと聖書にある.
そう思うと,もし妻が先に召されても,信仰も希望も愛も残るのだから,あまり悲しくないのだろう.涙を流す夜はあっても,妻は消えてしまうのではなく,いなくなるわけでもなく,神さまの御許に先に召されるのだから.妻の人格や信仰が立派だから,短い生涯で天に召されることが叶った,そんな論理になるかと思う.私なんかは人生の落伍者だから,逆に長生きしてしまうだろう.
帰り道で久々に夕陽が見えた.高校のとき千葉の港で夕陽を見ていた自分を思い出した.あの頃は可能性に満ちていた.その可能性の泉を食いぶちて,今やそんな泉はもう枯れている.ただ,干からびているのではなしに,揺らがない信仰となって自由の温泉でも沸かしているように,幸福に行き着いている.可能性とは必然のもとにいざなわれるためのエネルギーであったかもしれぬ.必然,いずれ死ぬということの只中に.
