若いとき,いつも自分が嫌いだった.もう10年前になる.大学院に入学した時から,自分嫌いが少しずつ収まった.こういうことは揺れ戻しがあるもので,社会人2年目は自死欲と闘う日々だった.本当に死ぬ手前までの状態だった夜が何回もあった.首を何度も吊り,殺虫剤を喉に噴射し,狂って出歩いた昼もあった.高卒10年目で,どうしようもなく,自分には時給で緩やかに下降する生活しかないと思っていた.
その暮らしを覚悟した手前,趣味は広がった.駄菓子屋に行き,20円の飴を買って帰ることが贅沢だった.仕事帰りにはラーメン屋など行けるはずがなく,ドラッグストアで健康用品の商品アイデアを感嘆しつつ比べるのが好きだった.この時期は実に荒れていたが,思えば実に強い幸福を感じた時期でもある.本屋に並ぶ高級な知識に無限の可能性を感じ,宗教音楽に心奪われ,読む書物に事欠かない.ある意味自分の好きな領域が広がった.
自分はただの不良青年ではなくて,自分のことが大嫌いな,つまり自分以外の人で嫌いな人は知らない,ある種見どころのある青年だった.障がい者認定され就労施設に通い始めても,人生が充実していたことに変わりなく,教会へ通い始め,妻と結婚し,二人で暮らすようになって,その幸福が絶望であると知った.自分は絶望しているだけだった.自分のことが徹底して嫌いであり,自分から脱け出たかったにすぎないのだ.
今その日々を思い起こすと,当時地域で流行っていたゆるキャラにだいぶ励まされたこともあるが,あんなに強い幸福を所持することもあるのだと思った.そういう人しか自殺は許されないと述べた文学者がある.自分が圧倒的に嫌いな対象が,世の中の誰かではなく自分であるとき,絶望する.しかし,信仰を持ったとき,最も幸福な信仰を持てる人も,絶望していた人なのである.自分の世界で嫌いな物事がないのだから.
