世には,すらりと読める本と,何日間もの睡眠を必要とする本がある.後者は1章ずつ読むための集中を要求し,睡眠を以て定着を図るが,前者は疲労時の精神の休息をもたらすため,しばしば文才があると評される.前者は偉大な文豪,後者は悪文家.しかし,悪文を書く能力には,世才とは隔たった才能が埋もれていることがある.
悪文と評される本が,数十年から一世紀経過して古典の代表作となった場合が枚挙できる.フローベル,オスカー・ワイルド,ジョイス.これは文章に限らず,ベートーベンやゴッホやウォーホルも初期の評価は散々だったと聞く.悪文は従来の評価軸にプロットできない故に評価が低いので,後世にとって時代を創造した精神となることもある.
例えば,「文は人なり」という文を初めて英訳しようと試みる.学識の豊かな翻訳家なら,すぐさまビュフォンの名を浮かべ,The style is the man.と適切な訳を編み出すだろう.短く意味の深い文になっている.しかし,悪文家は正面に採らない.「文は人なんだから,”sentencer”という名詞にしてしまおう」という具合.以降の文でHe said a sentencer.等と使っていくのだ.
これは極端な例かもしれない.すなわち,文を名詞化してしまうし,意味を隠してひっくり返してしまう.しかし,ここに潜む創造性は,考え難い着想になってはいないか.悪文家はこうして自らのことばを持って遊んでいる.そして悪文家ほど,真に読みやすい文を書くこともあるし,歴史に残る名句を生むこともある.時代を先取った記述を生もうとするから悪文も生まれるのだろう.

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