専門家も間違える.物事の本質は,人間の中にはなく,神さまの創造物にある.人間にも調べて分かることもある,考えて初めて捉える概念もある,人間が作ってきたものは扱える.でも,なにしろ人間だ.間違えたっていいはずだ.そもそも専門家に正しい見方を要求する読者のほうが足りない.鵜呑みにせず融通が利くようになるには,専門家の情報の裏にある学問を修めるのが早い.でもそういう機会もあまりない.
学問だっていつも正しいとは限らない.半世紀以上正しいとされてきた定説も,異なる視点から捉えると状況が一変したことだってある.正しいとは何か.本当に正しいことはあるのか.正しい文の裏に隠れているもっと大きな本質を,私たちは捉えようとしているだろうか.専門家の論考を参考にし,情報を集めて比較し結合させて,自分の見方を組み立てないと,真実はいつまでも分からないはずだ.
というのは,私は自分が正しいと思ったことがあまりない.いつも自分は間違えるから,情報はすぐに見える形で整理しておくし,この小さな頭にある記憶を頼りにしないし,経験から判断することも重視しない.自分はよく間違える.自分で考えるのが大切だとはいえ,様々な先達の論考を参照しなければ井の中の蛙で終わる.そう学生時代に刻まれたから,今もそうやって考えている.
もし正しい判断ができるような人物がいるなら,その人は経験も記憶も情報も重視しない.その人は考えることを繰り返し,習慣にしているはずだ.私はそう推測している.経験も記憶も情報も,そのまま適用してはいけないからだ.いつも新しくなる状況には古すぎる.ただし,古典がそうであるように,人間の性質や物事の仕組みなど,学問をもとにして判断するならその後の展開がある.それが専門家の仕事である.

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