明日は礼拝だ.1週間の自分の所作を振り返り,悔い改める日.牧師が云う,人間は傲慢で,自己が中心で,人を裁く神になろうとする.これが人間の原理的性質.私は正直にはまだよくわかっていないけど,この人間が神に象って作られた唯一の生き物らしい.そして神が与えたもうたキリスト,イエス.イエスはこの人間的性質を持っていたとは思えない.とすると,イエスに何を倣えばいいのか,よくわからなくなる.私はイエスではないから,イエスにはなりえない.
イエスという存在は,神と人とをつなぐ.神のことばを人に伝える.永遠にそういう存在である.イエスが活動した年齢より私は年を取った.イエスの凄みが鮮やかになって来た.しかし,イエスのようには,なれなかったし,これからもなれそうもない.イエスに倣うといえ,イエスには及ばない.永遠にそういう存在である.だから私は小さいし傲慢だし,自分に籠って人を評価して生きるのだろう.その殻を破り捨てるのが,しかし教会であり礼拝の説教なのである.
なるほど私はイエスにはなれなかった.イエスには永遠に敗北するだろう.イエスは神の子であるから当然のこと,この敗北には何の負い目も負わなくてよい.むしろイエスの軛を負い,すべての罪を贖ってくださるのだから,私はイエスの後をついて歩むほかない.イエスの軛の重みはやはり軽いようであり,その軛が私にとって,罪の重さが無になるほどだ.
イエスは重さを無にし,あらゆる物事から重力を奪って自由にしてくださる.ここに人生の解があるとすれば,重さが減ることは善であり,長い時間生きるにつれどうしても重くなるところを軽くすることは神の望むところだと,いうことになる.軽佻さとは違う,軽さ.重さを避けて得た軽い暮らしではなく,重さから自由になった軽さ.この懸隔には大きいものがある.

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