10代の頃から,良い生き方とはどんな人生だろうかと結構深刻に考えたことも多かった.当時の結論は当座のものだった.イエスを主であると信じてから,本当に善く生きるきっかけをいくつも経験し,今35歳にしては幸福に溢れている,世の中でも幸せな人間になってきた.イエスの教えを実行すると,思い切ったような勇気がいるけど,実行さえすれば一生の宝になる.生涯忘れないし,召天しても宝となって積まれている.この地上で実行した教えが,私の天の住まいに宝を増す.今35歳だけど,35歳なりに天の住まいは心地よいものになっている気がする.これから年を経ると,もっと居心地の良い住まいに改装したくなるはずだ.
この35年で,記憶に残る良い行動は,すべてが実行したイエスの教えであることに,私は驚く.私が自分の考えで行ったことは,たとえその時良いことだと思っていても,良いと思っていたのはその時の自分だけで,誰の印象にも残らない.イエスの教えを実行することのほかに良い人生はないことが,年々明らかになっている.私はそう考えているが,私だけではあるまい.人間の考えで良いことはできない.イエスの教えだからこそ,真に良い行動がとれる.自分の考えで物事を決めないことが重要かのようだけど,これほど確かなことはない.年々生きているうちに,そう確証するようになっている.
高校倫理の受験勉強で,人類史上の賢人たちが何を考えてきたかを,その年齢なりに深く勉強し,こんなものかと合点してきた.20代は数学や科学の勉強ばかりしてきた気がする.できることをやってきたことに後悔はなく,30代の実務経験と資産形成の年代を,あと5年間疾走しようと思っている.40歳で1,200万円の堅実な資産.かなり良いのではないか.ベストに近いものを感じる.なんだかんだで困難にぶつかっても打ち克ってきたし,問題は生きていればいろいろ生まれる.本当に善い人生を生きるには,いろいろな知恵をもっと持ち,もっと考えておきたいとそう思う.
50歳にもなれば,10代の頃なんて若気の至りな回想だろうし,20代の頃も真面目に疾走していたように思うだろう.でも,それらは色褪せた思い出ではなく,生き生きと思い描かれる事実だろう.現に,最近10年の過去は,すぐそばに感じられ,すぐ隣にいる.過去がこんな風に身近に感じられるものだということを若い私は知らなかった.人生は意外に同じで近くて,すぐそばにあり,いつも手に取るようだ.私が生きていない時代の人類も,すぐそばに歴史を持って生きた人が少なからずいたはずだ.今私は,過去をこんなにもすぐそばに持てることに驚いている.これが「イエスがすぐそばにいる」ことの意味だろうと思う.

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