きょう不図思ったこと.私は大きくないということだ.今まで自分を過剰に評価してきたのかもしれない.いろいろと周りの方々から誉められることが多く,自分は価値のある人間だと思いすぎていた面が否めない.自分の価値を正しく認めるには,人間の尺度は使えない.どうするか.神さまの尺度で自分を見ればよいのだろう.神さまは人の間に優劣をつけない.神さまを知っているとは,見えないものだけを知っていることだ.世にある有象無象にありやなしや云われても,気にしないことだ.そこで私は,聖書を日々読んでいないことを直覚した.
私はもう少し神さまのことばに生きるべきだ.そうする人は特にこの国では少数派だ.身近に神さまの話ができる人がいる国ではない.だからこの国で神さまをもっとよく知ろうとする姿勢を示すだけでも,神さまは善く答えてくれる.生涯を全うするうえで必要なものは与えてくれるし,より善く生きようとする志を助けてくれる.このことは祈り願い考えるなかではっきりするが,毎日そうやって生きている人が少ない.職場にも数名いるかいないかと思う.私は人間の誰かをすごいと思ったり絶対化や偶像化をしないように気を付けて働いている.
知識は神さまから頂いてきたものだし,人間の発見は個人の業ではなく聖霊の業である.人間が成してきた偉業はすべて神さまがその人に与えてきたことである.神さまを信仰するほど,つまり神さまに寄り縋り救いを求め祈り願う中で,神さまが与えてくださったから,神さまはその人を使わしめて世に有益な知識をもたらしてきた.誰かの功績や能力によるのではない.偉大さとは,どれだけ正しく謙遜であったか,神さまに従順であったか,素直であり続けたか,そういうところに真の尺度があるのだろう.
金持ちになろうとして金持ちになることはなく,偉大になろうとして偉大になれるようなこともなく,偉人の真相は隠されてきた.でも本当は偉人は毎日同じ習慣を生きていて,特段変わったことをしないで坦々と続け,そうして大きな成果を上げている.人間にはそう映る.神さまが祝福するからこそ,坦々とした尽力の暮らしを送れるのであり,それはこの国に限らず,世界各地の暮らし,歴史上の各時代においてもそう変わらなかったはずだ.真に善く生きたいので,私は祈りの手引きとともに何でも祈ることにした.

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