子どもの頃,寝室に世界大百科事典があった.全長1mはあったか.内容は子どもながらも面白く,もしこれが小さな文庫で読めれば進んで読みたいと思ったものだ.父の専門である昭和史のビデオもあった.仕事で使うか自分で見たいためかはわからない.聖書や六法全書や国語辞典も備えた本棚だった.一般的な教養のある本棚である.ただ読んでいた姿は見たことがない.
私は天体データの本と漢和辞典と折り紙の本を好み,それが特技となり今に至るが,結局父の設えた本棚が優れていたのだと思う.赤緯赤経の概念やフラムスチード式の星座図や天体密度など,大人でも知らない知識を子どもでも当然に持つことを学んだし,全ての文字が読めることで全てを知れるのではないかという広さの可能性を持ったし,包んだり結んだりをはじめ立体構成の感覚は折り紙の発想から学んだ.
高校生の時,私は深い自己否定に陥り,結局自分を再肯定するまで10年かかった.ミルの精神の危機やヤスパースの限界状況やフロムの逃走は,私の深まる精神に長いこと刺さった.悩まずに過ごす方法もあったと思うが,悩まずにはいられなかった,悩んだ方が自然だったと思う.受験勉強が一切できなかったが仕方ない.哲学書を読んだことで国立大学の倫理科目の記述試験をパスできたのだし.
子どもの頃の私,そして子どもの頃に期待された私とは大きく異なる私になった.その壁にぶつかる時期が早かった気はする.10年間も苦しんだ.でも,結論が得られた.今は大変自由に暮らしている.もちろん,これから社会人になって抱くような特有の悩みから免れて生きていけるとは限らない.しかし,この私の生き方を基に考えて良いのだ.自由に考えて生きて良い,これは考える人間の権利であり義務である.
